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本多忠勝の活躍

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本多忠勝の活躍

本多忠勝は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名で、徳川家康の家臣として数々の戦場で活躍しました。徳川四天王徳川十六神将・徳川三傑の一人として、家康の天下統一に貢献しました。生涯で57回もの合戦に参加し、敵味方からその勇猛さと忠義を讃えられました。本多忠勝の活躍を、代表的なエピソードを交えて紹介します。

初陣と初首

本多忠勝は、1548年に三河国額田郡(現在の愛知県岡崎市)で、本多忠高の長男として生まれました。幼い頃から徳川家康に仕え、1560年に13歳で元服しました。その翌年には、今川義元が敗死した桶狭間の戦いの前哨戦である大高城攻めに参加し、初陣を飾りました。このとき、同時に初めて敵の首を取ったという武者ぶりでした。この戦いで、本多忠勝は家康から「まことに我が家の良将なり」と激賞されました。

一騎討ちと単騎駆け

本多忠勝は、織田信長との同盟後、上ノ郷城攻めや牛久保城攻めなどに参戦しました。1570年には、姉川の戦いにも参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行しました。そしてこのとき必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となって朝倉軍を討ち崩しました。この戦いにおいて忠勝は、朝倉軍の豪傑・真柄十郎左衛門との一騎討ちで勇名を馳せました。この一騎討ちの様子は、後に歌舞伎の演目「本多平八鹿角兜」になりました。

伊賀越えと蜻蛉切

本多忠勝は、1582年に本能寺の変が起きたとき、家康が堺に滞在していたときに随行していました。家康が京都に行って信長の後を追おうと取り乱したのを忠勝が諌めて、伊賀越えを行わせたといいます。このとき、帰路の途中の木津川で船に乗った際、渡し終わった船の船底を槍の石突で突き破り、追手が使用するのを防いだというエピソードがあります。この槍は、刃の長さが44cmほどの大きなもので、ある日その槍の穂先に止まった蜻蛉が真っ二つになったということから「蜻蛉切」と呼ばれるようになりました。この槍は、天下三名槍の一つとされています。

小牧・長久手の戦いと真田親子の助命

本多忠勝は、1584年に小牧・長久手の戦いに参戦しました。このとき、豊臣秀吉の大軍の前に徳川軍が苦戦していることを聞き、わずか500名の兵を率いて駆けつけました。そして5町(約500m)先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて悠々と馬の口を洗わせました。この豪胆な振舞いや活躍により、豊臣秀吉から東国一の勇士と賞賛されました。また、織田信雄にも賞され、法成寺という刀を賜りました。本多忠勝は、1590年に上総国大多喜に10万石を与えられ、1601年には伊勢国桑名に国替えとなりました。1600年の関ヶ原の戦いでは、娘婿の真田信之の頼みで、真田昌幸・幸村親子の助命を家康に嘆願しました。家康は本多忠勝の忠義に報いて、真田親子の命を助けました。

最期と遺言

本多忠勝は、1610年に桑名城で死去しました。享年63歳でした。晩年の忠勝は、周りのものに自分の名前を掘っていたといいます。本多忠勝も怪我をするようになっては終わりだなと言った言葉通り、それから間もなく亡くなったのです。忠勝は遺言で、自分の墓は桑名の浄土寺に建てること、自分の槍は家康に献上すること、自分の刀は嫡男の忠政に譲ることなどを述べました。また、自分の死後は、家康のために忠義を尽くすようにと、家臣たちに遺言しました。本多忠勝は、生涯にわたって家康のために戦い、その忠義と勇猛さは、歴史に名を残すこととなりました。


以上が、本多忠勝の活躍についての記事です。