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坂上田村麻呂の活躍

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坂上田村麻呂の謎【電子書籍】[ 川村 一彦 ]

坂上田村麻呂の活躍

坂上田村麻呂は、平安時代初期の公卿・武官です。桓武天皇に重用されて、軍事と造営を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍に任命されて蝦夷征討に功績を残しました。また、薬子の変では大納言に昇進して政変を鎮圧するなど、政治面でも活躍しました。死後は嵯峨天皇の勅命により平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて神将や武神、軍神として信仰の対象となりました。坂上田村麻呂の生涯とその意義について、以下に紹介します。

坂上田村麻呂の出生と出仕

坂上田村麻呂は、758年に坂上苅田麻呂の次男または三男として生まれました。坂上氏は漢系渡来系氏族で、代々武芸に優れて朝廷に仕える武門の一族でした。田村麻呂も幼少期から武芸を好み、778年に21歳で出仕しました。近衛府の将監として武官からの出仕であり、桓武天皇の信任を得て出世していきました。

蝦夷征討と征夷大将軍

坂上田村麻呂が活躍した時代は、東北地方に住む蝦夷と呼ばれる人々との対立が激化していました。朝廷は律令体制を確立するために、東北地方の支配を強化しようとしましたが、蝦夷たちは朝廷への服属を拒否し、反乱を起こしました。桓武天皇蝦夷征討を開始し、789年に紀古佐美を征東大使とする5万の軍勢を胆沢に送りましたが、蝦夷の族長・アテルイに敗れました。そのため、桓武天皇は田村麻呂を征東副使に任命しました。田村麻呂は大伴弟麻呂のもとで蝦夷討伐に功をたて、796年には陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、さらに鎮守府将軍も兼任することになりました。そして797年には征夷大将軍に任じられました。田村麻呂は4万の軍勢を率いて陸奥へ出征し、胆沢城と志波城を築いて蝦夷の拠点を攻略しました。802年にはアテルイが降伏し、蝦夷征討はほぼ完了しました。田村麻呂は蝦夷の同化にも努め、仏教や農業の教えを広めました。

徳政相論と薬子の変

坂上田村麻呂蝦夷征討の功績により、政治面でも重きをなすようになりました。806年に桓武天皇崩御した後、平城天皇が即位すると、田村麻呂は中納言と中衛大将に任じられるなど、側近として重用されました。しかし、病弱だった平城天皇は弟・嵯峨天皇に譲位して平城京へ移りましたが、体調が回復すると寵愛していた藤原薬子と兄・藤原仲成らとともに重祚を企てました。その結果、朝廷は嵯峨天皇平城上皇による二所朝廷と呼ばれる状態に陥ってしまいました。その中で、平城上皇平安京から平城京への遷都の詔勅を出したため、嵯峨天皇は田村麻呂を造宮使として平城京に送ります。平城京遷都を拒否することに決めた嵯峨天皇は田村麻呂を大納言に昇進させましたが、自らの詔勅に背く動きを知った平城上皇は激怒し、薬子とともに東国に向かって挙兵しようとしました。そのため、嵯峨天皇は田村麻呂にこれを阻止するように命じ、進路を遮られた平城上皇は都に戻って出家し、薬子は服毒自殺して、薬子の変は終わりを告げました。

坂上田村麻呂の死とその後

坂上田村麻呂は811年に病に伏せて54歳で亡くなりました。嵯峨天皇は田村麻呂の死を惜しみ、従二位を贈り、常閑寺殿一品法観清議大居士という諡号を与えました。また、田村麻呂の遺言により、平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬されました。これは、田村麻呂が平安京の東方にある蝦夷の地を守り続けたことを示すとともに、平安京の東方からの侵入者を防ぐという意味があったと言われています。田村麻呂の墓は京都府京都市山科区西野山岩ヶ谷町の西野山古墓とされていますが、島根県邑智郡邑南町日貫の宝光寺墓所とする説もあります。田村麻呂は死後も、王城鎮護や平安京の守護神として崇敬され、正一位田村大将軍として祀られました。また、将軍家の祖神として、源氏や平氏などの武家にも信仰されました。