iinira’s blog

歴史のブログを書くことにしました。いーにらです。よろしくお願いします‼️

ユリウス・シーザーとは?

アフィリエイト広告を利用しています

# ユリウス・シーザーとは?

ユリウス・シーザーは、古代ローマの最も有名で影響力のある人物の一人です。彼は政治家、将軍、作家、改革者として、ローマの歴史に多大な足跡を残しました。彼の名前は、今でもラテン語で「皇帝」を意味する「カエサル」として残っています。

## 生い立ちと家族

ユリウス・シーザーは、紀元前100年(一説には紀元前102年)の7月12日または13日に、ローマの貴族の家系であるユリウス氏族の一員として生まれました。彼の家族は、ローマの建国者ロムルスや女神ヴィーナスの子孫を自称していました。

シーザーは若い頃から政治に興味を持ち、紀元前68年または69年にクァエストル(財務官)となり、ローマの政治システムの進歩の過程(クルスス・ホノルム)に入りました。紀元前65年には大官椅子(祭祀官)になり、紀元前62年にはプラエトル(法務官)になりました。

シーザーは三度結婚しましたが、そのうち二度は離婚しました。最初の妻はコルネリアで、紀元前84年に結婚しましたが、紀元前69年に死別しました。二番目の妻はポンペイアで、紀元前67年に結婚しましたが、紀元前62年に離婚しました。三番目の妻はカルプルニアで、紀元前59年に結婚しましたが、シーザーの死まで生き残りました。

シーザーには一人の実子と数人の養子がいました。実子はクレオパトラとの間に生まれたカエサリオンでしたが、シーザーは彼を認知しませんでした。養子には、甥のオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)、友人のブルトゥス、部下のデキムス・ブルトゥスなどがいました。

## 軍事的な業績

シーザーは、ローマの最も優れた将軍の一人として知られています。彼は、ガリア、ブリタニアゲルマニア、エジプト、ポントス、アフリカ、ヒスパニアなど、多くの地域を征服し、ローマの版図を拡大しました。彼は、敵の戦術に対応する柔軟性や、奇策や奇襲を駆使する創造性を持っていました。彼はまた、自分の兵士たちに対しても厳しく、しかし公正で親切であり、彼らの忠誠と献身を得ていました。

シーザーの最も有名な軍事的な業績の一つは、ガリア戦争です。紀元前58年から紀元前51年までの間、シーザーはガリア(現在のフランスやベルギーなど)のほとんどをローマの支配下に置きました。彼は、ガリアの部族の同盟や反乱に対処しながら、約800万人のガリア人のうち約100万人を殺し、約100万人を奴隷にしました。彼はまた、ローマ人として初めてブリタニア(現在のイギリス)に上陸し、ゲルマニア(現在のドイツ)にも侵入しました。

シーザーは、自分の軍事的な冒険を『ガリア戦記』という本に記録しました。この本は、ラテン語の散文の傑作として評価されており、シーザーの戦略や戦術、ガリアの地理や文化、シーザー自身の人格や動機などについての貴重な情報源となっています。

## 政治的な業績

シーザーは、ローマの政治にも大きな影響を与えました。彼は、ポンペイウスクラッススという二人の強力な政治家と同盟を結び、三頭政治と呼ばれる非公式な支配体制を作りました。この同盟により、シーザーはガリアの知事として自由に行動することができました。

しかし、三頭政治は長続きしませんでした。クラッススは紀元前53年にパルティアで戦死し、ポンペイウスはシーザーの敵対者と結びつきました。紀元前49年、シーザーはローマに帰還するよう命じられましたが、彼はそれを拒否し、ローマに向かって進軍しました。これは、シーザーとポンペイウスの間の内戦の始まりでした。

シーザーは、紀元前48年にポンペイウスギリシアのファルサルスで破り、エジプトに追い詰めました。そこで、シーザーはエジプトの女王クレオパトラと恋に落ちました。シーザーは、クレオパトラとその弟プトレマイオス13世との内戦に介入し、クレオパトラをエジプトの王位につけました。

シーザーは、紀元前47年にポントスの王ファルナケス2世をゼラで破り、有名な「来た、見た、勝った」という言葉を残しました。紀元前46年には、アフリカでポンペイウスの残党を打ち破り、紀元前45年には、ヒスパニアで最後の抵抗を抑えました。これにより、シーザーはローマの内戦に勝利し、ローマの実質的な支配者となりました。

シーザーは、ローマの社会や政治に多くの改革を行いました。彼は、ローマ暦を太陽暦に改め、ユリウス暦と呼ばれる新しい暦を導入しました。彼は、ローマ市民の権利を拡大し、属州の住民にも市民権を与えることを計画しました。 彼は、元老院の議員数を増やし、自分の支持者を任命しました。 彼は、ローマの財政や税制を整備し、公共事業や社会福祉を充実させました。 彼は、ローマの文化や教育にも貢献し、図書館や博物館を建設し、ギリシア語やラテン語の文学や歴史を奨励しました。

シーザーの改革は、ローマの発展に大きな影響を与えましたが、同時に彼の敵対者を増やすことにもなりました。元老院の保守派やポンペイウスの残党は、シーザーの権力が強大すぎると考え、彼を打倒しようと画策しました。紀元前44年3月15日、シーザーは元老院に出席するためにポンペイウス劇場に向かいましたが、そこで60人以上の共謀者に襲われ、23ヶ所の傷を負って暗殺されました。 その中には、シーザーの友人であり養子でもあったブルトゥスも含まれていました。シーザーは、ブルトゥスに向かって「ブルータス、お前もか」と言ったと伝えられています。

シーザーの死は、ローマの歴史に大きな転換点となりました。シーザーの後継者となったオクタウィアヌスは、シーザーの暗殺者たちと戦い、紀元前31年にアクティウムの海戦で勝利しました。 オクタウィアヌスは、紀元前27年にアウグストゥスという称号を得て、ローマの初代皇帝となりました。 これにより、共和政ローマは終わりを告げ、帝政ローマの時代が始まりました。

ユリウス・シーザーは、古代ローマの最も有名で影響力のある人物の一人です。彼は、ローマの歴史に多大な足跡を残しました。彼の名前は、今でもラテン語で「皇帝」を意味する「カエサル」として残っています。 彼の生涯と業績は、多くの作品や研究の題材となっており、今でも私たちの興味を引きつけています。

ローマの歴史(4) カエサルの時代 [ テオドール・モムゼン ]

「ローマの歴史(4)カエサルの時代」はテオドール・モムゼンと長谷川博隆による、共和政の崩壊から新しい世界帝国の基礎を築いたカエサルの時代を描く巨編です。全4巻のクライマックスで、軍事君主政の成立やポンペイウスカエサルの共同支配など、約575ページにわたり濃密な内容が展開されています。名古屋大学出版会から2007年に発行され、価格は7,700円(税込)で送料無料。長谷川博隆は、東京大学文学部卒業後、名古屋大学や中部大学で教鞭をとり、本書が刊行された当時は名古屋大学名誉教授として活動していました。