iinira’s blog

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大塩平八郎

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# 大塩平八郎とは?

大塩平八郎は、江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力です。彼は、飢饉に苦しむ民衆を救うために、幕府や豪商に対して武装蜂起を起こしました。この反乱は、大塩平八郎の乱と呼ばれ、幕府に衝撃を与えるとともに、各地の一揆天保の改革に影響を与えました。

## 生い立ちと家族

大塩平八郎は、1793年に大坂天満に生まれました。大塩家は今川氏の末流で、尾張藩馬廻や大坂町奉行組与力を務める武家でした。大塩平八郎は、14歳で与力見習いとして大坂東町奉行所に出仕し、25歳で与力となりました。

## 儒学者としての活動

大塩平八郎は、独学で陽明学を修めました。陽明学とは、知行合一を中心思想にした中国の儒学の一派です。知行合一とは、「知識は行動を伴ってこそ意味がある」という考え方です。大塩平八郎は、この考え方を大切にして、自分の信念に従って行動することを重視しました。彼は、1830年に与力を辞して、自宅に私塾「洗心洞」を開き、子弟に陽明学を教えました。彼は、江戸の陽明学者・佐藤一斎とも書簡を交わし、学問の交流を深めました。

## 反乱の原因と経過

大塩平八郎の反乱の原因は、天保の大飢饉と大坂町奉行所の対応でした。天保の大飢饉とは、1833年と1836年に全国的に発生した大規模な飢饉で、30万人以上の死者が出ました。大塩平八郎は、飢えにあえぐ民衆を救うために、自分の蔵書を売り払って米を配ったり、大坂町奉行所に救済策を提案したりしましたが、奉行は彼の提案を無視し、江戸に米を送るなどの暴挙を行いました。大塩平八郎は、このような状況に怒り、幕府や豪商に対して武装蜂起を決意しました。

1837年3月25日、大塩平八郎は、門人や民衆とともに大坂町奉行所や豪商の屋敷を襲撃しました。彼は、檄文を配って民衆に呼びかけ、幕府の改革や民衆の救済を訴えました。しかし、反乱は幕府の軍勢によってすぐに鎮圧されました。反乱による火災で大坂の5分の1が焼失し、1万世帯以上が被災しました。大塩平八郎は、戦場から逃れた後、隠れ家で養子の格之助とともに自決しました。

## 反乱の影響と評価

大塩平八郎の反乱は、幕府に衝撃を与えるとともに、各地の一揆天保の改革に影響を与えました。反乱の情報は全国に広まり、越後の国学者・生田万や伊勢の農民・横井小楠などが、大塩平八郎に倣って反乱を起こしました。幕府は、反乱の原因を反省し、老中・水野忠邦による天保の改革を実施しました。天保の改革は、幕府の支配力を強化しようとした改革で、贅沢や浪費を禁止し、倹約や節度を求めました。しかし、天保の改革は、庶民や大名の反発を招き、水野忠邦が失脚して、2年で失敗に終わりました。

大塩平八郎の反乱は、歴史上の評価が分かれる事件です。一方で、彼は、飢饉に苦しむ民衆を救おうとした正義の人物として賞賛されます。彼は、自分の信念に従って行動することを重んじた陽明学者として、知行合一の精神を示したと言えます。彼は、幕府の改革を願っていた儒者として、朝廷に忠誠を尽くし、幕府に諫言を行ったと言えます。他方で、彼は、幕府や豪商に対して暴力を振るった反逆者として非難されます。彼は、自分の理想に固執して、現実を見失ったと言えます。彼は、反乱によって多くの人々に被害を与えたと言えます。

江戸後期の大坂で、天保の大飢饉によって深刻な米不足が生じ、餓死者が続出する中、大坂町奉行所の元与力であり陽明学者の大塩平八郎は、救済を嘆願しても容れられず、私塾の門弟らと共に「救民」を掲げて決起しました。しかしこの乱は一日で鎮圧され、大塩は自決まで一カ月余り大坂市中で潜伏しました。藪田貫氏は、近年発見の史料をもとに、幕府を震撼させたこの事件の真相に迫ります。