iinira’s blog

歴史のブログを書くことにしました。いーにらです。よろしくお願いします‼️

ピサロとは誰か?

アフィリエイト広告を利用しています

## ピサロとは誰か?
ピサロといえば、スペインの探検家で、16世紀に南米のインカ帝国を征服した人物です。彼の本名はフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)で、1475年ごろにスペインのエストレマドゥーラ地方に生まれました。彼は貧しい家庭で育ち、文字も読めないまま羊飼いや兵士として働きました。しかし、彼は冒険心と野心に満ちており、1502年にはアメリカ大陸に渡りました。

## ピサロインカ帝国征服
ピサロは、1513年にバルボアとともに太平洋を発見し、1524年から1532年にかけて、インカ帝国の存在を確認するために3度の探検を行いました。1532年には、180人の兵士と27頭の馬を率いてインカ帝国の中心地カハマルカに到着しました。そこで、彼はインカ皇帝アタワルパと会見することになりましたが、これは罠でした。ピサロは、アタワルパが到着すると、突然攻撃を仕掛け、彼を捕らえました。そして、彼に身代金として部屋一杯の金と銀を要求しました。アタワルパは、部下に金と銀を集めさせましたが、それでもピサロは彼を解放しませんでした。1533年8月29日、ピサロは、アタワルパに裁判を行い、死刑判決を下しました。そして、彼は火刑に処すと脅してキリスト教に改宗させ、絞首刑によって殺害しました。

## ピサロのその後と死
ピサロは、アタワルパの死後もインカ帝国の征服を続けました。彼は、インカの首都クスコを占領し、自分の弟たちを各地の総督に任命しました。彼はまた、1535年にはリマに新しい首都を建設し、そこに居住しました。しかし、彼はスペイン王からの正式な承認を得られず、また、他の探検家や征服者との争いに巻き込まれました。1538年には、ラス・カサスというライバルと戦って勝利しましたが、その後、彼の部下の一部が反乱を起こしました。1541年6月26日、ピサロは自宅で反乱軍に襲われ、暗殺されました。彼は66歳でした。彼の遺体はリマの大聖堂に埋葬されました。

## ピサロの評価と影響
ピサロは、世界史上でも最も有名で論争の多い人物の一人です。彼は自分の野望のためにインカ帝国を滅ぼし、多くの人々の命や文化を奪いました。彼は残虐で冷酷な行為を行い、インカ人やスペイン人からも恨まれました。しかし、彼はまた、勇敢で才能ある探検家としても知られています。彼は少数の兵士と馬で広大な帝国を征服し、南米の歴史に大きな影響を与えました。彼はスペインに多くの財宝や土地をもたらし、スペインの黄金時代の一端を担いました。彼は映画やドラマや小説などの作品にも多く登場し、様々な解釈や表現がされています。彼は南米の歴史の中で忘れられない存在となっています。

インカ帝国探検記改版 ある文化の滅亡の歴史」は、増田義郎による中央公論新社から発行された中公文庫の書籍です。この本は、インカ帝国の太陽崇拝と高度な文明から、フランシスコ・ピサロによる「発見」、スペイン人による首都陥落、そして征服後の抵抗の日々までを膨大なスペイン語史料と実地踏査をもとに再構築した記念碑的な名著です。増田義郎東京大学名誉教授であり、文化人類学とイベリア及びイベロアメリカ文化史の専門家でした。