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ヘンリー8世

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ヘンリー8世

ヘンリー8世は、テューダー朝の第2代イングランド王で、6人の妻との結婚や離婚、カトリック教会からの分離などで有名です。彼は若いころは文武に優れた王として尊敬されましたが、晩年は暴君として恐れられました。この記事では、ヘンリー8世の生涯とその影響について簡単に紹介します。

## ヘンリー8世の生い立ちと即位
ヘンリー8世は1491年にヘンリー7世とエリザベス・オブ・ヨークの次男として生まれました。兄のアーサーは1501年にスペインの王女キャサリン・オブ・アラゴンと結婚しましたが、翌年に死去しました。ヘンリーは兄の跡を継いで王太子となり、キャサリンとの婚約も引き継ぎました。しかし、教会法上の問題やスペインとの外交関係の変化などで結婚は先延ばしになりました。1509年にヘンリー7世が死去し、ヘンリー8世は18歳でイングランド王に即位しました。同年、ローマ教皇からの特別な許可を得て、キャサリンと結婚しました。

## ヘンリー8世の政治と戦争
ヘンリー8世は即位後、父の時代の重臣たちを粛清し、新たにトマス・ウルジー枢機卿兼大法官として重用しました。ウルジーはヘンリーの政治や外交の実務を担い、ヘンリーは自分の趣味や娯楽にふけりました。ヘンリーはフランスとの戦争に情熱を注ぎ、1513年には神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と同盟してフランスに侵攻し、テルワンとトゥルネーを占領しました。しかし、この戦争は財政的にも人的にも大きな負担となり、ヘンリーは1525年にはフランスと和睦しました。ヘンリーはまた、スコットランドとの戦争でも勝利を収め、1513年にはフロドンの戦いでスコットランド王ジェームズ4世を討ち取りました。ヘンリーはスコットランドに対しても和平を結び、自分の妹マーガレットとジェームズ4世の息子ジェームズ5世との結婚を取り付けました。

## ヘンリー8世宗教改革と6人の妻
ヘンリー8世の最大の問題は、男子の世継ぎを得ることでした。キャサリンとの間には、1516年にメアリー王女(後のメアリー1世)が生まれましたが、その他は死産や流産でした。ヘンリーはキャサリンとの結婚が兄の妻との近親婚であったために神の怒りを買っていると考え、離婚を求めました。しかし、キャサリンは離婚に応じず、ローマ教皇も離婚を認めませんでした。ヘンリーは1527年に宮廷に仕えていたアン・ブーリンと恋に落ち、彼女と結婚するためには手段を選ばない様になりました。ヘンリーはウルジーを失脚させ、代わりにトマス・クロムウェルを登用しました。クロムウェルはヘンリーの離婚問題を解決するために、イングランド国教会の成立を画策しました。1533年には、ヘンリーはカンタベリー大司教トマス・クランマーによってキャサリンとの結婚を無効と宣言され、アン・ブーリンと結婚しました。同年、アンはエリザベス王女(後のエリザベス1世)を出産しました。しかし、ヘンリーはアンにも男子を望み、彼女が不貞を働いたという嫌疑をかけて1536年に処刑しました。その直後、ヘンリーはジェーン・シーモアと結婚しました。ジェーンは1537年にエドワード王子(後のエドワード6世)を産みましたが、その直後に死去しました。ヘンリーは1540年にアン・オブ・クレーヴズと結婚しましたが、彼女の容姿に不満を持ち、すぐに離婚しました。同年、ヘンリーはキャサリン・ハワードと結婚しましたが、彼女も不貞を働いたとして1542年に処刑しました。ヘンリーは1543年にキャサリン・パーと結婚しましたが、彼女はヘンリーの死まで生き延びました。

## ヘンリー8世の晩年と死
ヘンリー8世は晩年になると肥満や病気に苦しみ、暴力的で気まぐれな性格になりました。彼は自分に逆らう者は容赦なく処刑し、国教会の首長として教会の改革を進めました。しかし、彼の改革はカトリックプロテスタントの双方に不満を生み、宗教的な混乱を招きました。ヘンリーは1544年に再びフランスに侵攻し、ボローニュを占領しましたが、これも財政的にも人的にも大きな犠牲を払いました。ヘンリーは1547年に55歳で死去しました。彼の遺言により、息子のエドワード6世イングランド王に即位しましたが、彼は1553年に15歳で死去しました。その後、ヘンリーの娘たちがメアリー1世エリザベス1世としてイングランド王に即位し、テューダー朝の歴史を続けました。

## ヘンリー8世の評価と影響
ヘンリー8世は、イングランド史上でも最も有名で複雑な王の一人です。彼は自分の欲望のために国や教会を変革し、多くの人々の命や運命を左右しました。彼は文化や芸術にも関心を持ち、ルネサンスの影響を受けた王宮や建築物を建てました。彼はまた、音楽や詩の才能もあり、自分で作曲や執筆もしました。彼の代表作としては、『グリーンスリーヴス』という曲や『アサーション・オブ・ザ・セヴン・サクラメンツ』という論文があります。彼はローマ教皇から『フィデイ・デフェンソル』(信仰の擁護者)という称号を与えられましたが、後に教皇と決別しました。

ヘンリー8世の治世は、イングランドの歴史に大きな影響を与えました。彼の宗教改革は、イングランド国教会の成立とカトリック教会からの分離をもたらしました。これは、後の宗教戦争や内乱の原因となりましたが、同時にイングランドの主権や独立性を強化しました。彼の6人の妻との結婚や離婚は、イングランドの王位継承に混乱を招きましたが、同時にテューダー朝の最も偉大な王であるエリザベス1世を生み出しました。彼の子孫は、スチュアート朝ハノーヴァー朝などの王朝を通じて、現在のイギリス王室にまで続いています。

ヘンリー8世は、愛されたり憎まれたりした王でしたが、彼の人生や業績は今でも多くの人々に興味を持たれています。彼は映画やドラマや小説などの作品にも多く登場し、様々な解釈や表現がされています。彼はイングランド史の中で忘れられない存在となっています。

この本は、陶山昇平による『ヘンリー八世 暴君か、カリスマか』です。ヘンリー八世の生涯を通して、彼の治世がどのようにして血なまぐさい印象を残すことになったのかを探求しています。彼の結婚、宗教問題、そして忠臣の処刑など、悪名高い国王の真実に迫る本格評伝です。また、現代の政治的人物との比較も行われ、強烈なエゴと自己愛が政治的人間の動力源であることを考察しています。